ウエイトトレーニングとの出会い②

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おおはらゆういち(パクチー大原)

1994年福岡県生まれ。「筋トレ仲間が欲しい」と思い、早稲田大学に入学。早稲田大学のボディビルコンテストで優勝し2016年度ミスター早稲田となる。卒業後は不動産の営業→フリーランスのトレーナーになる。現在は島根県の山奥で【筋トレ村】を作りつつセミリタイア生活を送っている。

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おなーす、パクチー大原です。

 

前回に引き続きウエイトトレーニングと

の出会いについて書いていきます。。。。

 

 

 

 

 

高校に入ってから私とウエイトトレーニングの関係はより密接なものになりました。

 

というのも、高校にはトレーニングセンター(以下よりトレセン)がありそこにはベンチプレス台、パワーラック、レッグプレス、チェストプレスマシンがあったからです。

 

それまで、5kgと15kgのダンベル、15kgの水のボトルしか使ってこなかった私としては、トレセンはもはやディズニーランド。今見るとかなりしょぼい施設なのですが、初めて見るパワーラック、ベンチプレス台、20kgプレートを見るだけで心が高鳴りました。

 

「ここで俺はトレーニングができるのか!」と。

 

幸い?私の母校である門司学園高校の柔道部は当時指導者がおらず、計5人の部員(3年生1人、2年生1人、1年生3人)で自主的にトレーニングをしていくかなりゆるい環境でした。

 

そのため、ほどほどに柔道部の練習をしたらトレセンに行き好きなようにトレーニングができていたため当初はトレセンでベンチプレスを行い、自宅では持っているダンベルでショルダープレスやダンベルカールなどのトレーニングを続けていました。

 

高校1年生の10月になると、柔道の練習を率先して行なわせていた当時の3年生が引退したため、それ以降の柔道部は「練習したい奴だけ来る場所」になりました。そうなってからは柔道部の練習に来る人間は皆無。

 

私自身は柔道部の練習にはいかなかったのですが、学校の授業が終わるとすぐさま柔道場に向かい、柔道着ではなくトレーニングウェアに着替えてトレセンに向かう日々が始まりました。

 

当時の私のトレーニングの知識としては、モバゲーの筋トレコミュニティで知識人っぽい人が発信していた情報、石井直方の筋肉まるわかり大辞典、あとはYouTubeで合戸孝二がひたすらドロップセットをやっているという情報の3つを参考にしてトレーニングをしていました。

 


石井直方の筋肉まるわかり大事典

 

ベンチプレスならピラミッド法を用いてまずはセット間のインターバルを3分ほどとりなかまら徐々に重量を上げていき最終的に1RMに挑戦。

 

その後はインターバルを1分にしてひたすら追い込む。あがらなくなれば2.5kgほど重量を下げてまたあがらなくなるまでセットを繰り返す。最終セットではドロップセットを用いて20kgのバーがあがらなくなるまで追い込んで終了という流れでした。

 

筋トレの補助をしてくれる人がジムにいればひたすらフォースドレップで10セットほど繰り返すトレーニングも行なっていました。

 

レーニング頻度としては確か週2日

 

やりすぎですね。しかし、当時はそれがベストの方法だと思っていましたし、一週間ほど長引く筋肉痛が来るとこれでいいんだと喜んでいました。

 

こんなトレーニングでも筋トレを始めてから1年間でベンチプレス100kgを上げられるようにはなりましたが、もっと賢い方法を行っていればもっと記録を伸ばせたのかなと思います。

 

石井直方さんに加えて高校の時からよんで起きたかった人の本は山本義徳さんですね。

 

前回のトレーニングよりも1%強い刺激、つまり101%の刺激が与えられれば筋発達はする。欲張って120%や150%の刺激を与えても101%刺激を与える筋発達の度合いは変わらないといのはただただ目からウロコだと思います。

 

残念ながらこの本に出会ったのが1年前。もっと早くこの本に出会えていれば、、、と思うくらいの良書。僕のトレーニングのベースの多くを占めている著書の1つになります。

 


ウェイトトレーニング -理論編-

 

物販野郎になりそうなので宣伝と今回の話はこのへんにして、次回のエピソードに続きます。